明珠在掌・・・・「みうよじゅたなごころにあり」と読みます。
自分の持っている宝に気づいていない人が多い。どこにあるかって・・・・その手の中にあります。自分の掌をみるようにする。
「こんなものでしょう」と安易な妥協で報じられるメデャアの在り方に代表されるように、よそがあんなものだから、うちもこんなものでいいでしょう。そうして作られた家から、情報まで、幼い時からこういうものに慣れ親しんで育てば、自分の持っている宝に気づかなくなります。
会議で決める習慣に潜む、誰も責任をとらなくてすむ仕組みを自ら打破し、自分が責任を引き受ける覚悟と行動力こそ自分を豊かにする。
会議の心は明珠在掌から始まるようにしたいものです。
会議
「会議ばかりして・・・」・・・よく耳にする言葉です。でもそんなにムダな会議だったらしないはずではないでしょうか。 会議の目的と手法に問題があるのでは?なにかを決定するために、会議をして・・・そこまではよくてもその先に問題があるかも知れません。であるなら、会議をすることは間違っていないと思いがち。でも、そこに落とし穴。
矛盾なく機能する組織にするために、会議の目的を見直してみませんか?会議は物事を決定する場ではなく、決定に必要な情報を集める場と考えてはどうでしょうか?
決定するために会議をすると、決定の責任者が不在になります。責任者がいない案件は現場に委ねられたとき、どんな扱いを受けるのでしょうか?してもしなくても同じということになりませんか?
会議の実情と再定義
- 会議は物事を「決定」する場ではありません
- 会議とは空間、時間を指す場のことで、決定者(責任者)ではありません。
- 「会議で決めたではないか?」という言葉の背景にある考え方には、みんなで決めたことを理由に、 責任や義務を持つ人が責任を放棄する場になっています。
- 行動の決定は権限、責任をもつ人がひとりで行うべきです。 で、なければその結果に対する責任や義務を誰も負うことが出来ないからです。
- 結果に対する責任や義務を誰も負う必要のない仕事の仕方では、エキスパートが必要でなくなります。つまり会議は自分たちの不勉強を多い隠すための場になっています。
もし、会議の場で「決定」があったのならば、 責任、または決定権のある権限ある人が、その会議の席上で決定し、参加していたひとりひとりに対し、命令を出したという意味が正しい意味になります。しかし、「会議で決めたではないか」という使われた方は、みんなで決めたという意味で使われています。これでは誰にも責任がないということに他なりません。
責任者不在の曖昧さが、責任を問われない気楽さを生み出し、目標達成への活動が弱まり、目標達成が困難になります。
正しい会議の目的と内容は以下のようになります。
- 幹部のひとりひとりの意見を他と調整しながら聞く(情報収集)
- 何か新しいこと、知らせるべき幹部に知らせる(伝達)
- 訓練方法として何かを教える(教育)
人を幸福にする 会議のかたち
- 参加者全員が意見を言う機会が平等に与えられているようにします。
- 権限(責任、又は決定権)のある人は聞くだけでOK。(感謝と感想の総括で留め、決定は後日の方がいい)
- 意見の言えない人は参加者として無能であり、参加への拒否でしかないので、 次回から参加させてはいけない。参加させるなら十分な訓練をして参加させる。
- テーマを予告しており、参加者は準備しておく、資料も配布しておくきましょう。
会議を機能させる必要な基本スキル
- 自分のための優先順位を決める権利。
- 対等な人間として、敬意を持って扱われる権利
- 自分の気持ちを言葉にして表現する権利
- 自分の意見と価値観を表明する権利
- 「 イエス」「ノー」を自分が選択して伝える権利
- 間違う権利
- 考えや気持ちを変える権利
- 『わかりません』と言う権利
- 欲しいものを欲しい、したいことをしたいという権利
- 人の悩みの種を自分の責任にしなくてもよい権利
- 周囲の人から認められることに頼ることなく、人と接する権利
- ポジティブでなかったり、自己主張しない 自分を選択する権利
以上は、自立した一人の人間として、万人に認めるべき「権利」ですが、実際には権利と考えていない人が存在しています。その存在は、時には心ない経営者の場合ですが、都合がいい場合があります。しかし、心ある経営者や現代のコンプライアンスを重視する社会にあっては、デメリットになる場合が大半です。
これら「権利」をモチベーションを支えるスキルと 再認識して、各人が身につけるように奨励しましよう。このスキルがない人は、会議に出てくるなというのが、アメリカ流であることも参考にしてください。
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