2013年3月29日金曜日

40歳までに身につけたいマネジメントとコントロール


前回、お話したマネジメントとコントロールという二つの基本技術はどんな職種や職場でも使えるノウハウです。ですから是非とも30歳代で身につけるようにして、40歳までには実現するようにしたいことなのです。
マネジとは語源は、10世紀ごろは野生の馬をつかまえて調教し、目的地に到着すること、あるいは倒木や古木にまたがり、漕いで川や湖を渡ることを意味しています。これをビュジアルで見せているのが、意外にもセクシー女優、マリリン・モンロー主演の「帰らざる河」なのです。



それが近世になって、経営用語として転用されたもので、他者である部下を使いこなして目標を達成する、という技術のことなのです。
いまだにNHKでもマネージャーと表記していますが、これひとつみても「マネジメント」が正確に日本に輸入されなかったことを物語っていて、その名残りで、便所掃除などを率先してやり、部下に後ろ姿を見せて働いているマネジャーが偉いなどという感情的な説明が罷り通っているのです。誤解されては困るのですが、便所掃除を率先してするのが悪いということではなく、マネジャーの仕事はあくまで目標を達成することにあります。

感情的な評価が可能になると、休まず、遅れずの「見せかけの勤勉」が通用してしまうのです。そしてやる気論になってくる。しかし、やる気があっても、できないと仕事にならないのです。

見せかけの勤勉の正体」の著者、太田肇氏はその前書きで次のように書いています。

2009年3月に開催された第二回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)。野球の「世界最高峰」を決める大会と銘打っているだけに、参加選手の意気込みはすごかった。
クールなイチロlが野球青年の本能をあらわにし、自ら先頭に立ってチlムを引っぱろうとしていた。彼がこんな姿を見せたのははじめてだ。イチローだけではない。松坂も、ダルピッシユもふだんの公式戦では見せない、なりふり構わぬ真剣さで闘った。そしてWBC日本代表として連続優勝を成し遂げた瞬間、年俸数億円のスーパースターたちが子どものように抱き合って喜んだ。

しかし、そばにいた原監督だけはちょっと違っていた。
口を真一文字に結んだ端整なマスクからは、喜びと興奮を懸命に抑えようとしているのが伝わってくる。「主役は選手たち」という一歩引いた姿勢を最後まで貫き通したのだ。

この大会はドラマチックな結末で終わったが、仮に日本チlムが連続世界一という栄冠を手にできていなくても、選手にとって、またファンにとっても特別に印象に残る大会だったに違いない。大会後、イチローが胃潰瘍を患い、松坂が肩を故障してシーズンの大半を棒に振ったのも、究極のモチベーションがもたらした後遺症だったのだろう。結果だけで言うわけでなく、半年前の北京オリンピックで彼らが見せた表情や態度とは明らかに違う。あのときは「星野ジャパン」の総帥、星野監督が見せた熱血ぶりとは対照的に、選手
たちはどこか冷めていた。

どちらも世界一を決める晴れの舞台。中心選手の顔ぶれはそれほど大きく変わっていないし、監督もそれぞれが球界を代表する人物。けれどもスター選手の燃え方がなぜ、これほど違うのか?

私に言わせるとそれは必然的であり、そこには「やる気のパラドックス」というべきメカニズムが働いていたと考えられる。思うに原監督は「やる気のパラドックス」を理解している数少ない現役監督の一人であり、代表監督就任を受諾した時点で、スター軍団の能力とモチベーシヨンを最大限に発揮させるには、自分がどんな姿勢をとればよいかわかっていたのではないか。

話はガラッと変わるが、私たちはつぎのような現象をしばしば見たり聞いたりする。
並はずれた努力と負けん気で競争を勝ち抜き、功成り名を遂げた人たち。野心と執着心も人一倍強い彼らは、自分の成功だけではものたりず、わが子に後を託そうと子育てにも情熱を傾ける。幼いころから塾や習い事に通わせ、おだてたり伺喝したりしながら、何とかわが子にも親と同じやる気を共有させようとする。

ところが、どういうわけか、子のほうは親の遺伝子を受け継いでいるはずなのにまったく欲がない。たとえ表面的にはやる気を見せていても、本物のやる気とは質が違う。当然、生き馬の目を抜くような競争は勝ち抜けない。ニ代目、三代目がパツとしないのは、単に彼らがハングリー精神に欠けるだけでなく、そこにも「やる気のパラドックス」が働いているからである。


今、企業が社員を採用する際に、また学校の教師や公務員を採用する際に、最も重視するのは「やる気」、「熱意」だ。また本文で述べるように、社内の人事でも実は「やる気」を評価する傾向が強まっている。不況や低成長で給与を上げられないと、いっそう精神論に走りやすくなるのだ。おまけに「やる気」や「熱意」といった言葉を並べておくと世間受けもよい。今や日本の組織に、そして日本社会全体に「やる気主義」が蔓延している。
けれども、それによって社員の、また日本人のやる気が上がっているだろうか?
答えは、「否」である。

皮肉なことに、それと反比例して「やる気」は低下し、日本人自身をして「世界でいちばんやる気がないのは日本人』(可児鈴一郎、講談社)とまで言わしめるようになってしまった。それほど「やる気主義」はやる気にとって有害なのである。「やる気のパラドックス」に気づかないで、このまま「やる気主義」をとり続けたら企業も社会もじりじりと活力を失っていくのは目に見えているし、日本人が歴史上最もやる気のなかった時代として後々語り継がれるだろう。

言うまでもなく、「やる気」はとても大切だ。やる気しだいで、とうてい不可能と思われていたことが可能になることもあるし、逆にもって生まれた能力を生かせないままに終わってしまうことだってある。だからこそ親は子の、教師は生徒の、上司は部下のやる気にこだわる。けれども、案外何がやる気を妨げているかには気づかないものだ。ましてや自分の言動が、意に反して相手のやる気を奪っているとは想像もしない。たとえ気づいた
としても、そこから抜け出ることは想像以上に難しい。

そもそも私たちは「やる気がない」というと、やる気を引き出すことばかり考える。お金、働きがい、楽しき、自己実現・・・。書店にならぶビジネス書も、社員や部下をやる気にさせる方法を説くものばかりだ。私はそれが不満だった。やる気を引き出すことを論じる前に、何がやる気をなくさせているかを考えるべきではないか、と。自動車だってサイド・ブレーキをかけながらいくらアクセルを強く踏んでもまともに走らない。無理に走らせようとすると故障してしまう。人間だって同じで、いくらやる気を出させようとしても、それを妨げているものがあれば、やる気は出ないし、無理に出させようとすると組織も人間もおかしくなる
人間の場合、だれでも内部にやる気の源泉、すなわち車のエンジンに当たるものをもっている。したがって、やる気をなくさせているものさえ取り除けば、自ずとやる気を出すはずだ

この書籍見せかけの勤勉の正体では、本物のやる気を引き出すリーダーシップとマネジャーの姿勢について追求していきます。

評価の曖昧さ、目標の在り方、管理、仲間同士の牽制・嫉妬、処遇などモチベーションを引き下げている要因をピックアップして行きます。
結局、なにが問題かというと、従業員の本音を知りようのない社長を筆頭に管理者が現場の仕事と正しい仕事の仕方を知らないことに尽きるのです。

『これだけ社員のやる気がない、やる気が出ないとわれると、経者やマネジャーは反発したくなるに違いない。
「社員のやるや働きがいには十分気をつかってきた。ドライな欧米企業とちがって成績があがらなければクビを切るようなことはしないし、たとえミスをしても向こう傷は問わないようにしてきた。またやる気のある社員には、ポストに関係なくやりがいのある仕事も任せてきたはずだ。これだけ社員のやる気を尊してきたのにやる気が出ないとは、甘えるのもいいかげんにしろ!」と。
実は、そこに落とし穴があるのだ。』と太田氏は語る。さらに太田氏は続ける。

つまり、根っこは一つなのだ。それは、部下のやる気を常に鼓舞し、何よりもやる気を重視する「やる気主義」である。
社員が自分の仕事を片づけても帰れないし、たとえ仕事に余裕があっても休暇を取りにくいのは、休みを取らず遅くまで働く者ほどやる気があると上司が決めつけ、それをプラスに評価するからである。逆に、いくら仕事ができても早く帰り、休暇を完全取得していてはやる気がないと見なされ、高い評価は得られない。


やる気主義が蔓延している会社では、技術不足、もっともな作業プロセスを説明しても「やる気が問われている」と勘違いされてしまいます。違いが分からないのです。そういう会社では、考えさせることが必要なのですが、それが思うようにいかないのは明白です。白か黒か、イエスかノーか思考に染まっているのです。ですから命令の方が話が早い。そのように育てて来た結果ですが、その裏にはやらされ感があります。やらされ感が強く、考える力が弱いとマンネリ感がなかなか拭えないのです。

さらに、休みを取らず遅くまで働く者ほどやる気があると上司が決めつけるのには、上司の言い訳(無意識の自己満足)という巧妙なトリックがあります。このトリックは部下にすれば抜け道になります。 労働条件が厳しい反面、 やっているフリが通用してしまうのです。これが「落とし穴」です。
これが本のタイトルになっている世界に名高い見せかけの勤勉の正体なのです。世界に名高いというのは、外国人と仕事をしてみたら分かります。彼らは決めた条件通りにしか働きませんが、条件で定めたことには遂行するのに一生懸命です。建前がないのです。これがマネジメントとコントロールの基本なのです。

やる気を出せばもっとやれるはずだという思いが、部下に過大な要求を押しつけ、目標をエスカレートさせてしまう。そして、やる気のある者、忠実な部下には報いてやりたいという思いから処遇に差をつけ、それが結果として社員の聞に不満や不公平感を抱かせる。そもそも寄って立つ基準がやる気という主観的なものである以上、納得できない部下が出てくるのは当然である。

いっぽう、過剰な管理や人間関係の問題は「やる気主義」と無関係だと思われるかもしれない。しかし、それらも源は「やる気主義」に発していることが多い。
マネジャーというものは、自分のやる気や意気込みが強過ぎると、その意欲とエネルギーが部下の管理に向かう。またマネジャー自身が上司からやる気や忠心を見られていると思うと、それをアピールするため部下を過剰に管理してしまうことがある。

その通りなのです。そして自分のやる気や意気込みが強過ぎるほど、継続できないのです。マネジメントとコントロールは誰がやっても同じようにできる再現性を追求したものなのです。この点から見ても、主観に偏り、感情の起伏をエネルギーにして強制的に行動して当面の目標を達成するやり方には、疲れてしまって連続性がないのは明白なのです。

強制ではなく自発性。それには共感が必要なのです。一方、強制がなく自発性を期待するだけという職場もあります。これも失敗します。共感がないからです。マネジメントに於ける人を使って目標を達成するには、人が動く動機が必要なのです。それが共感です。共感というと主観のように思うかも知れませんが、計画された共感づくりには、誠実な下心による緻密な計算が必要なのであって、マネジメントの重要な部分なのです。

このような間違いを30代で正しておかないと、本当のマネジャーにはなれないまま、40歳を迎えてしまい、社員の生活設計も会社も歪んでしまうのです。

2013年3月1日金曜日

マネジメントの実際の中身



スペシャリストが、目標の達成という課題を実行する手段は、何でしょうか。
目標は上司からの命令で出てくることが多いものですが、それを表現するためには、それをさらに細分化したプログラムを作りいくつかの小さな課題に分解し、小さな目標を自分自身でたくさん立て、マイルストーンを使って消化していく必要があります。(建築業者が使う行程表をイメージすると分かりやすいと思います)

その目標を実現するには、いろいろな方法を考え出さねばならないわけですが、重要かつ肝心なことは、それぞれの方法について決まりを決めねばならないということです。

つまり、たいていの目標は達成するのに時間がかかるものだから、そのひねり出した方法、あるいはあらかじめ決められている方法を継続していかねばならなくなります。その継続するための方法が、「決まり」です。

ビジネスの上で追求される一つの数値あるいは状態は、数時間だけやれば実現してしまうというものではありません。何日間も何か月もかかるということは、それだけの期間は同じ作業を同じ方法で継続しなければならないということです。

ここに、マネジメントの実際の中身があり、その重要さを理解できていなければ間違ってもは、スペシャリストにしてはいけないし、なってはいけないのです。

マネジメントの実際の中身を決め、それを実行するのがマネジメントなのです。つまり、どのような方法について、どのような決まり、つまりルールを決めるかが仕事なのです。



それには次の5つの条件をクリアしなければなりません。

①調査と実験を繰り返す
②ルールを修正し続ける
③教え続ける
④ルールどおり行動する部下を評価する (他の要素での評価を優先しない)
⑤ルールどおりの作業の進め方を習慣にしてしまう。

このどれかひとつでも省略するとマネジメントは機能しなくなります。

ところが、この実際がどうなっているかというと、
①調査と実験を繰り返す→思いつきで
②ルールを修正しつづける→間違ったやり方を変えようとはせず、ルールを無視するようになる、
③教え続ける→一度示達しただけで終わり
④ルールどおり行動する部下を評価する→他の感情的な評価を優先させて、ルールどおりにやっている人を低くしか評価しない
⑤ルールどおりの作業の進め方を、習慣にしてしまう→その都度、考えてやらねばならなくしている

いずれも、マネジメントを自ら放棄し、マネジメントをできなくしてしまっているケースが圧倒的に多いのです。なぜそんなことになるのか、その最大の原因は継続・維持という最も重要な原理を無視しているからです。その理由に調査と実験を繰り返さず、個人の思いつきで取りかかっているという無謀があるからです。つまり元々信用できていないことを本気でやれる状態ではないのです。

同時に、ルールは少しずつでも修正されていくことによってのみ有効であって、よ
りよくなっていくものです。これは一見すると継続の原理と矛盾するようですが、実務上はそうではありません。実務に当たっている方なら実感できるはずです。
少しずつ変えるのであって、大勢はそのまま継続になるからです。しかもむやみに追加するのでなく、追加と削除を同時に行うという本当の意味での変更なのです。


ところがここでも変更は無責任だというわけのわからない意見が出てきます。結果が芳しくなくても変更しないほうが無責任なのは良識のある者なら理解できるはずです。

しかし大事なことは習慣づけであり、昔からこれを躾と言い、これをもって社風、企業文化と表現してきたのです。社風とはムードではなく、共通した反応の仕方のことなのです。それを「その会社らしい」とムード的な表現をしているだけで、実際には科学的な実験と観察、習慣化によって導き出した決まりのことなのです。