道を究めることで、もともと備わっている可能性を開いたことへの贈り物、報酬とは、自分という器への贈りもので、道を究めることで分け合っているといえます。
私たちが買い物するとき商品と交換に対価を支払っています。同じように、会社は労働に対して報酬(給与)という対価をを支払っています。その取り決めが労働条件です。
つまり 報酬、給与は「職務を果たすことで支払われるもの」です。
ところが報酬の本来の性格である職務給というより、むしろ存在給として支払っている会社があります。矛盾を内包している会社になるほどその傾向があります。
もしかして、あなたの部下は、あるいはあなた自身も、約9時間存在していれば無条件に支払われるものと錯覚していませんか?
でもムリもありません。小さいときから、親と一緒に暮らす過程で、「会社に入ったら自分で責任をもって職務を果たすんですよ」なんて教えていないと思うからです。もしそういう育て方をしているなら立派です。たいていは、「いい会社に入ったら給料もいいし、将来も安定するんだから、しっかり勉強しなさいよ」みたいなのが多いでしょう。これが間違った判断の始まりです。
だから会社に入る、会社にいることが重要になってしまい、報酬の意味が曖昧になるのもムリがありません。
入社したら、トップ、幹部、上司が個々に教えはするけど、しっかり嫌われないようにしなくては」と思ったり、「言われたことはちゃんとしないと」と考えたり・・・・ますます分ったようで分っていないことになっているものです。
だから、「どうなってるんだ!」と言われても、「そうは言われても」と状況、他者のせいにしてしまう。本人には全然悪気がありません。悪気がないから反省が反省になりません。
あなたの部下は、あなたの会社に売った自分の労働をどのような品質や種類であってもいいのではなく、予め指示 によって具体的に示された指定通りのものでなければならないとルール化されていますか?その場合においてのみ、対価は支払われる約束になっていますか?
たとえばあなたのお店のレジーで、無愛想に対応して、賞味期限が過ぎたものを販売しても、対価がもらえるとしたら、お店はどんどん信用を失い、お客さまを失います。こんなことが罷り通っていいのですか?そうではないですよね。
あなたのお店のレジーで、愛想良く対応して、賞味期限内の商品を販売してこそ、お店は繁栄します。そうでないと困りますよね。そのように指示も出しているはず。なのにお店では、私語が氾濫、お客さまが並んでいようが、少々お待ちくださいのひとこともなしに、無愛想に注文を聞くだけ。このような現実はいったいどうして起っているのでしょうか?このような事態の責任は誰にあるのでしょうか?
給与は、 あらかじめ指定された勤務先へ地理的に移動して、その場所に定められた時間内存在していたらもらえると錯覚していませんか?
そこまでひどくない?そうでしょうね?
では、会社に売っている自分の労働の品質や種類は、予め具体的に指示された指定通りのものになっていますか?
それでもない?
では、どちらに近いですか?
- 「報酬」は、職務、与えられた目標を果たした行為に対して支払われる対価です。
- 給与とは、約9時間存在していれば無条件に支払われるものではありません
- 正当な対価は年齢、社歴、学歴、身分、職務の名称によって、多寡が左右されるものではありません
- 労働者として売る「自分の労働」はどのような品質や種類であってもいいのではない
- 予め命令や指示によって具体的に示されている指定通りの労働であった場合に対価は支払われます。
- 予め命令や指示する義務と責任は上司にあります。
- 人時生産性の意味は「人」「命じた職務」に支払われるのではなく、行為に支払うための尺度です。
- さらに、「やりがい」という、お金に換算できない報酬があります。
人人悉道器。この世に生まれた人は誰でも道を極める可能性を兼ね備えている、努力によって、もともと備わっている可能性が開くという意味です。報酬とは、自分という器への贈り物だと考えられる人になりたいものです。
0 件のコメント:
コメントを投稿