2013年5月9日木曜日

ビジョン VS 宿命主義



一般に「ビジョン」とは、数10年後先の目標です。移り変わりが早い状況にあっては、もう少し短縮するのもいいでしょう。目標は数値で表現しますが、個人の場合は数値で表現するのが難しい場合も多いので数値でなくてもいいでしょう。しかし50歳以降に自分がどうなっていたいのか、どのような能力と社会的影響力をもっていたいのか、という内容がビジョンには必要です。

それがあまりにも抽象的だと、単なる夢や幻に、あるいはスローガンに成り下がります。では、ビジョンの特徴とは何でしょう。

それは現在の自分の、毎日の考え方や行動を律する基準になっているかどうかなのかです。これがなければビジョンとは言わないのです。

事業としてのビジョンの場合も、個人としてのビジョンの場合も、共通していて、次の条件が必要なのです。

第一に、現状を根本的に否定する内容であることです。 現状を否定する考え方が基準になっていなければビジョンとは言えないのです。

このビジョンに基づいて「もっと頑張ろう」というのでは、いかにも前向きに見えて実は後ろ向きなのです。それは現状肯定型であり、現状よりよくなることはないのです。

いま考えていること、やっていることはベストなのだから、このまま、あるいはもう少しやろうということでしかないのです。それでは現在の延長型にすぎない。結果は行動の結果なので、現在の延長を続ける限り、結果も現在の延長になります。

それがイヤだと言うなら現状否定をする。真のビジョンというものなら、「これではダメだ」、「根本的に変更しなければ」、「乗り換えねば」と、いつも反省することになります。結果の変化を求める現状否定から始めるしかないのです。これが現状否定型の論理なのです。


第二に、不可能への挑戦が常識的になっていることです。現在の自分には、とうていで
きそうにもない、自分には及びそうにもないことを、自分でできるようにするのが、
ビジョンという精神的な支柱です。

だから、自己限界をはるかに乗り越えたところにビジョンの設定が必要になります。あきらめを克服し、現在は障害や制約と思われていることをなくしてしまうためにこそ、ビジョンがあると考えるのです。

第三に、長い道程が前提になっていることです。ビジョンは数10年後の、自分の人生
の到達点です。だから短期決戦ではないので、壮大なものになります。ちょっと背伸びすれば届く程度のことを、ビジョンと呼んではならないし、そんなものは断じてビジョンではないのです。

以上のことは、個人のビジョンにも、企業ビジョンについてもまったく同じです。

ビジョンの対極にあるのが、あきらめ、つまり宿命主義です。
ビジョンが意志を働かせ理想を追求するのに反して、宿命主義では流れに身をまかせたあきらめでしかないのです。
ビジョンが人々の幸福を願い実現に挑むのに対して、宿命主義は利己的です。
ビジョンが先人たちの教訓、つまり原理原則を土台をするのに対して、あきらめ主義の場合には我流の思いつきのアイデアを採用します。

そして決定的に違うのがビジョンが生き甲斐の追求をするのに対して、宿命主義ではやりがいを追求します。

生き甲斐とはなんでしょう?
それは個人のハードワークの連続によって、他の大勢の人々の暮らしが少しでもよくなっていくことが実感できることです。
つまり普通に考えたら、損をしている、なんでこんなにしんどいと思えることを、自ら引き受けて、そこによろこびを見出せることなのです。
この考え方も先人達が残した原理原則から導かれたものでしかありません。

「なんで人のために、そこまでしなくてはいけないんだ。」と言う人には、見つけられないのが生き甲斐なのです。どこの会社のクレドにも書かれていることを、よく見ていただくと結局はそういうことなのです。そこまでの気迫のない人にとってクレドを展開する意味が発見できなくても仕方がないといえばそうなのです。

だからこそ、クレドに成功した会社は飛躍的に成長しているのです。人々に受け入れられた結果なのです。受け入れられ成長するのは当たり前なのです。
クレドとは生き甲斐のかたまりなのですから。





2013年5月8日水曜日

責任と義務とは何か、義務が果たせないのは上司の責任


「責任と義務」は組織の背骨ですが、責任が数値目標を達成することにあるなら、義務とは何でしょう?義務とは予め定められた規定と命令を果たすことです。明らかに任務が違うことは、職能の違いを意味しています。

責任はその名の通り「責任者」つまりスペシャリストが果たすことであり、義務は責任者でない人、スペシャリストでない人が果たす仕事なのです。スペシャリストでない人が果たす仕事とは、責任者から明確な命令のもとに果たすことで、明確な命令と、果たすべき能力の有無の確認がされた後のことです。この命令と能力の確認は責任者が果たす責任の種類なのです。

ところが、この責任を果たしていない責任者、果たせない責任が多いので、現場は混乱します。本人が命令を実行できるだけの能力があること、そのためには、事前に不足する能力の発見と、不足を充足する教育および評価が行われいていることが業務の効率を向上するためにも、人材を育成する上でも欠かせないのです。

もし、本人に命令を理解する能力がないとしたら、これは本人とその従業員を採用したものの責任です。しかし、それ以外の要素、能力不足の確認と充足する教育や命令の在り方は上司側の責任です。

さらにできなかった場合に、

  1. どのような作業ができなかったのか。
  2. できなかった原因として、どのような本人側の過失または怠慢があったのか。
  3. どうすべきだったのか。
  4. 同じミスを繰り返さないためには、今後どの部分をどう変えるべきか。

これらを上司が誘導して本人に確認させることが、上司が行う「反省」です。
これらがなく、本人の責任にするのは、重要な責任回避なのです。この責任回避が継続的に行われた場合、企業は成長できなくなり、人材は枯渇します。

このような間違いはスペシャリストにある立場の人が意識すれば容易に修復でき、あるべき姿に調整できます。もったいのないことなので、是非正しい姿に戻してください。

もうひとつ重要な問題があります。義務を負った人は誰に対して果たす義務があるのか、認識できるようにすることです。これが曖昧だと責任制度は機能していないことを意味します。たとえば「あなたは誰に対して果たすべき義務があるのか」と尋ねた場合、「会社に対してあります」と返ってこないでしょうか?

これはとんでもない誤認なのです。正しくは「命令を下した上司」です。

このような混乱が組織に見られるようなら背骨の矯正を行ってください。つまりマネジメントを正しくするということです。

このような混乱状態で組織図をどう描いても組織は機能していないのです。修復方法はマネジメントを正しくする以外にないのです。ところがこの場合にも誰か特定の個人を攻撃するだけで終わっている場合が多いのです。それではいつまでたっても組織は強くなりません。マネジメントの正常化。仕事の仕方を変えることが最優先なのです。




2013年4月30日火曜日

「責任と義務」は組織の背骨



組織を正常に創り正常に機能させるために責任と義務についてお話しておきましょう。
同業者であっても、大小に関係なく、組織の在り方は、随分と違います。単純に考えると同じ業種で成果をあげるには共通点が見られるものですが、実際にはまるで違うことが多いのが実情です。

その最大の原因は「責任と義務」の在り方も解釈も違いすぎるからです。しかし不思議なことに当事者にはあまりその意識がないのは、いくつもの同業他社を体験していないからです。そのため見学しても表面的になりがちで、特に「責任と義務」については、それぞれが自分の都合の良いように歪曲することが少なくありません。

責任とは、スペシャリスト(マネジャー)が、
①上司から数値目標を予告され、
②みずから実行計画を起案し、
③両者の合意の上に、
④実行を約束して、
⑤その目標を達成する
以上に尽きます。

ですから辞令を交付されたときから、請負契約書の締結と同じことになります。この意識がないと組織の背骨はまたたく間に歪んでしまい、組織は正常に機能しなくなります。
もしも目標数値が達成できないときは、請負契約のときと同じように契約したときの報酬が減額されることもあるのも仕方のないことです。そこまでしない会社の方が多いので、誤解をしてしまう人が少なくありませんが、それは期待値を含んで減額されていないと考えるべきなのです。

言いたいのは減額が目的ではなく、正確な実行計画を起案できるスキルと実行力を高めることなのです。

マネジャーには部下を持つマネジャーと部下を持たないマネジャーがいますので、部下を持つマネジャーの場合は部下を使って数値目標を達成する責任があります。それを織り込んでの実行計画を創る責任があるので、自ずと教育計画も含まれているはずです。ですから離職者が出ると実行段階で大きな痛手になります。この点も考慮されているはずなので、部下ののコミュニケーションについても細心の注意が必要になります。そこで組織づくりに不可欠な5つの条件にこだわりが生まれます。

1.人間の能力は教育によって無限に向上する
2.組織づくりが、やりがいと生きがいのある人間力アップのシステムであること 
3.労働法規を遵守していること
4.労働条件を停滞することなく向上させ続ける
5.職能適性検査に基づく適正配置をする

数値目標の達成が組織を創っていく役割をしているのです。表現を変えると業績の良い会社ほど組織がしっかりしていくのです。

ところが「責任」の意味を誤解していると、組織がしっかりしていないから業績が良くないと解釈する傾向にあります。この発想は何かに影響して、問題は外部要因にあって、自分たち内部にあるわけではないと考えます。

この傾向が両極端となり、同業者でありながら、全く違う社風の会社が誕生することになります。
なぜそうなるのか?最大の原因は実行計画を起案できない点にあります。あるいは起案させない点にあります。
なぜなら、果たせるはずの能力があらかじめ確認されないかぎり、数値目標の手続きは始まらないからです。能力がない者に数値目標を与えることは、その段階で与える側の責任放棄だからです。会社が若く、能力が身についていない場合もありますが、だからこそ学習のためにも実行計画が必要になります。

実行計画が第三者に分からない状態でフォローすることは不可能です。なぜならどこが間違っているのか、誰の目にも明らかにならないため、主観でのフォローに頼るしかありません。つまり上司側がカンを働かせて、間違いを探さなければならず、何かにつけて否定的になる危険があります。不当にやる気をなくさせる可能性があり、それを嫌うとやたらと感情的に肯定して、問題を客観的に捉えて改善することができなくなります。そのため幾度、挑戦しても進歩ができないという不幸に陥ります。

若いうちは、その方が当人も楽ですが、やがて年齢にふさわしい責任ある態度がとれなくなります。当初は独身だった人でも、その頃には家族もいるはずですが、ふさわしい役職を全うする力量もついていないことになります。

計画目標と実績との差異が縮まらないで、頭をかけばすむという状態が長く続くはずがないのです。長く続けられるとしたら、何かが間違ったままなので、続けば続く程、後で支払う利息も膨大になります。
つまり責任制度とは、きわめて人間的な温もりを持ったものであって、自由な生きがいとやりがいをめざしているのです。それを誤解していることは、この放棄に他ならないのです。


2013年4月2日火曜日

組織づくりの基本



組織づくりの基本

1.人間の能力は教育によって無限に向上する
2.組織づくりが、やりがいと生きがいのある人間力アップのシステムであること 
3.労働法規を遵守していること
4.労働条件を停滞することなく向上させ続ける
5.職能適性検査に基づく適正配置をする



  1. 人間の能力は教育によって無限に向上する

実際はどうあれ、人間の能力は教育によって無限に向上すると考えて、教育
対策を綿密に設定し、つねに教育を推進することが組織づくりの基本です。

ところがこれを拒否または嫌悪する従業員が少なくないのは、会社側が用意した教育の内容と見通しとが劣悪なためと評価すべきである。その最大の原因は目標達成のプロセス、結果と評価が形式的であることが影響しています。評価するためにとってつけた評価であり、現実の活動から乖離してしまっているケースが少なくないからです。現実の活動とはなにか。目標が達成できる仕組みに則った活動です。

どうすれば求める結果に辿りつけるか、 結果から逆算して、プロセスを計画し、計画通りに実行して、ところどころ必要な修正を行い続けることです。
教育は必要なプロセスが実行できるようにすることにありますが、計画が逆算したものでなく、主観的な根性論なら教育は結果に寄与することは少なく、教わることが現実と違うためリアリティがなくなるので、嫌気がさすのです。

さらにそういう状態になれてくると、根性論が浸透してくるので、教育が余計なもののように思えてくるのです。このことは先にも話したようにマネジメント&コントロールが理解できないまま、当人は知り尽くしていると誤解してしまうのです。このような劣悪な環境を作らないように組織づくりの基本を正しく押さえておきたいものです。








計画は修正していますか


日本流の計画は、もともとスローガン的願望であることが多く、それゆえに途中修正がないのが一般的です。しかしあるべきシステムではむしろ修正が起こるのが条件のように考えられています。

但し期限直前の修正では計画の意味がありません。達成したかどうかは、計画と実績との差異の幅が誤差の許容限界内ならOK 、それを出ればノーです。許容範囲がない場合、計画はなく目標のみはスローガン状態である場合がほとんどです。つまり気合いでスローガンに取り組んでいる状態が続いているので、やる気なれば目標に近づき、疲弊すると目標から遠ざかるという気分次第の結果になってしまうのです。

もう一つ忘れてはならないのがスケジューリングの使い方です。

週単位の進行計画であり、週ごとに果たすべき課題が異なるから、遅れがある場合には本人をはじめ、関係ある職位、ポジションの誰にもわかることが大切なのです。そのためコピーした書類は、関係ある職位、ポジションにすべてに配られていることです。

これによって、しかるべき助言と、必要ならば強制力のある助言(勧告)、あるいは命令によって修正が行なわれるのが普通なのです。ときには同じ原因の問題が他にも起こっているとして、他のマネジャー、スペシャリストへも修正命令が出されることもあります。原因が本人によるものではない場合、その問題の解決、排除は他の職位で行なわれることになります。つまり指導、サポートがタイミングよく的確に行なわれるのです。

一般的に、こうしたスケジューリング、すなわち週ごとの進行計画表ができていないから、遅れが明確にはつかめない。なんとなく、遅れている感じだ
けで、時機を失してしまうし、計画は絵に描いた餅に帰してしまいます。

「計画」という言葉に権威がないのは、実はこうした修正や指導が不可能
なためです。それは計画の中身がまるっきり分からない、あるいは違っているからなのです。計画がないと主観による叱咤激励にしかできなくなるので、本来の仕事から離れ人間関係を複雑にしてしまうという全く違う次元の問題になるので、立ち入れなくなってしまうのです。

立ち入れなくなるとは、結局期限終了後にしか参加できないので、終わったことを云々することになりますが、これでは教育にならないのです。
教育の基本はon-the-job trainingですが、事後はONではありません。これを続けるため、誰も本当には仕事を知らないという状態が作られてしまうのです。




2013年4月1日月曜日

スペシャリストとはマネジメントする人






マネジメントのことを、「管理」というと、本来のマネジメントの意味から遠のいてしまい、保全、維持というイメージが強くなってしまい誤解を招きます。このため変化を嫌うマネジャーが出てくるという

マネジメントは逆に、自ら変化を起こし、変化することで、新しいよりよい状態と数値に迫っていくのが本質だからです。

どうでしょう?保全、維持が仕事の中心になっているマネジャーを見かけませんか?国会で問題になる人たちに、このタイプの人が多く批判の対象になっています。

随分と違いがあると感じてもらえると思いますが、感じないとすればかなり問題で、もし、マネジメントする立場にあるとしたら深刻です。

マネジャーは、部下に作業させることによって数値責任を果たせる人であり、数値責任を果たすことが仕事の本体です。

マネジャーつまりマネジャー・スペシャリストに対してタレント・スペシャリストは、みずから作業をすることで数値責任を果たすわけです。

タレント・スペシャリストとは部下を持たずに任務を果たすスペシャリストのことです。カーディラーの営業マンの方はその典型ですね。

マネジャー・スペシャリストは部下を持ち、部下を使って任務を果たすスペシャリストです。どちらもマネジメントをしている点では同じです。両者共に、最初に目標があり、それを達成するための努力を、さまざまにやりとげていきます。 成果主義にふさわしい立場の人と言えます。

さて、目標があり、それを達成するための努力を、さまざまにやりとげない人がいます。こういう人はマネジメントしているわけでもなく、スペシャリストであるはずもなく、スペシャリストになることを放棄しているといっても過言ではありません。会社が出来高主義だとこの種の人を増やしてしまいます。

部下がいても、いなくてもスペシャリストは自ら目標の達成の手段を用意し、実行する者であって、指示・命令を受けて作業するワーカーとは違います。










2013年3月29日金曜日

40歳までに身につけたいマネジメントとコントロール


前回、お話したマネジメントとコントロールという二つの基本技術はどんな職種や職場でも使えるノウハウです。ですから是非とも30歳代で身につけるようにして、40歳までには実現するようにしたいことなのです。
マネジとは語源は、10世紀ごろは野生の馬をつかまえて調教し、目的地に到着すること、あるいは倒木や古木にまたがり、漕いで川や湖を渡ることを意味しています。これをビュジアルで見せているのが、意外にもセクシー女優、マリリン・モンロー主演の「帰らざる河」なのです。



それが近世になって、経営用語として転用されたもので、他者である部下を使いこなして目標を達成する、という技術のことなのです。
いまだにNHKでもマネージャーと表記していますが、これひとつみても「マネジメント」が正確に日本に輸入されなかったことを物語っていて、その名残りで、便所掃除などを率先してやり、部下に後ろ姿を見せて働いているマネジャーが偉いなどという感情的な説明が罷り通っているのです。誤解されては困るのですが、便所掃除を率先してするのが悪いということではなく、マネジャーの仕事はあくまで目標を達成することにあります。

感情的な評価が可能になると、休まず、遅れずの「見せかけの勤勉」が通用してしまうのです。そしてやる気論になってくる。しかし、やる気があっても、できないと仕事にならないのです。

見せかけの勤勉の正体」の著者、太田肇氏はその前書きで次のように書いています。

2009年3月に開催された第二回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)。野球の「世界最高峰」を決める大会と銘打っているだけに、参加選手の意気込みはすごかった。
クールなイチロlが野球青年の本能をあらわにし、自ら先頭に立ってチlムを引っぱろうとしていた。彼がこんな姿を見せたのははじめてだ。イチローだけではない。松坂も、ダルピッシユもふだんの公式戦では見せない、なりふり構わぬ真剣さで闘った。そしてWBC日本代表として連続優勝を成し遂げた瞬間、年俸数億円のスーパースターたちが子どものように抱き合って喜んだ。

しかし、そばにいた原監督だけはちょっと違っていた。
口を真一文字に結んだ端整なマスクからは、喜びと興奮を懸命に抑えようとしているのが伝わってくる。「主役は選手たち」という一歩引いた姿勢を最後まで貫き通したのだ。

この大会はドラマチックな結末で終わったが、仮に日本チlムが連続世界一という栄冠を手にできていなくても、選手にとって、またファンにとっても特別に印象に残る大会だったに違いない。大会後、イチローが胃潰瘍を患い、松坂が肩を故障してシーズンの大半を棒に振ったのも、究極のモチベーションがもたらした後遺症だったのだろう。結果だけで言うわけでなく、半年前の北京オリンピックで彼らが見せた表情や態度とは明らかに違う。あのときは「星野ジャパン」の総帥、星野監督が見せた熱血ぶりとは対照的に、選手
たちはどこか冷めていた。

どちらも世界一を決める晴れの舞台。中心選手の顔ぶれはそれほど大きく変わっていないし、監督もそれぞれが球界を代表する人物。けれどもスター選手の燃え方がなぜ、これほど違うのか?

私に言わせるとそれは必然的であり、そこには「やる気のパラドックス」というべきメカニズムが働いていたと考えられる。思うに原監督は「やる気のパラドックス」を理解している数少ない現役監督の一人であり、代表監督就任を受諾した時点で、スター軍団の能力とモチベーシヨンを最大限に発揮させるには、自分がどんな姿勢をとればよいかわかっていたのではないか。

話はガラッと変わるが、私たちはつぎのような現象をしばしば見たり聞いたりする。
並はずれた努力と負けん気で競争を勝ち抜き、功成り名を遂げた人たち。野心と執着心も人一倍強い彼らは、自分の成功だけではものたりず、わが子に後を託そうと子育てにも情熱を傾ける。幼いころから塾や習い事に通わせ、おだてたり伺喝したりしながら、何とかわが子にも親と同じやる気を共有させようとする。

ところが、どういうわけか、子のほうは親の遺伝子を受け継いでいるはずなのにまったく欲がない。たとえ表面的にはやる気を見せていても、本物のやる気とは質が違う。当然、生き馬の目を抜くような競争は勝ち抜けない。ニ代目、三代目がパツとしないのは、単に彼らがハングリー精神に欠けるだけでなく、そこにも「やる気のパラドックス」が働いているからである。


今、企業が社員を採用する際に、また学校の教師や公務員を採用する際に、最も重視するのは「やる気」、「熱意」だ。また本文で述べるように、社内の人事でも実は「やる気」を評価する傾向が強まっている。不況や低成長で給与を上げられないと、いっそう精神論に走りやすくなるのだ。おまけに「やる気」や「熱意」といった言葉を並べておくと世間受けもよい。今や日本の組織に、そして日本社会全体に「やる気主義」が蔓延している。
けれども、それによって社員の、また日本人のやる気が上がっているだろうか?
答えは、「否」である。

皮肉なことに、それと反比例して「やる気」は低下し、日本人自身をして「世界でいちばんやる気がないのは日本人』(可児鈴一郎、講談社)とまで言わしめるようになってしまった。それほど「やる気主義」はやる気にとって有害なのである。「やる気のパラドックス」に気づかないで、このまま「やる気主義」をとり続けたら企業も社会もじりじりと活力を失っていくのは目に見えているし、日本人が歴史上最もやる気のなかった時代として後々語り継がれるだろう。

言うまでもなく、「やる気」はとても大切だ。やる気しだいで、とうてい不可能と思われていたことが可能になることもあるし、逆にもって生まれた能力を生かせないままに終わってしまうことだってある。だからこそ親は子の、教師は生徒の、上司は部下のやる気にこだわる。けれども、案外何がやる気を妨げているかには気づかないものだ。ましてや自分の言動が、意に反して相手のやる気を奪っているとは想像もしない。たとえ気づいた
としても、そこから抜け出ることは想像以上に難しい。

そもそも私たちは「やる気がない」というと、やる気を引き出すことばかり考える。お金、働きがい、楽しき、自己実現・・・。書店にならぶビジネス書も、社員や部下をやる気にさせる方法を説くものばかりだ。私はそれが不満だった。やる気を引き出すことを論じる前に、何がやる気をなくさせているかを考えるべきではないか、と。自動車だってサイド・ブレーキをかけながらいくらアクセルを強く踏んでもまともに走らない。無理に走らせようとすると故障してしまう。人間だって同じで、いくらやる気を出させようとしても、それを妨げているものがあれば、やる気は出ないし、無理に出させようとすると組織も人間もおかしくなる
人間の場合、だれでも内部にやる気の源泉、すなわち車のエンジンに当たるものをもっている。したがって、やる気をなくさせているものさえ取り除けば、自ずとやる気を出すはずだ

この書籍見せかけの勤勉の正体では、本物のやる気を引き出すリーダーシップとマネジャーの姿勢について追求していきます。

評価の曖昧さ、目標の在り方、管理、仲間同士の牽制・嫉妬、処遇などモチベーションを引き下げている要因をピックアップして行きます。
結局、なにが問題かというと、従業員の本音を知りようのない社長を筆頭に管理者が現場の仕事と正しい仕事の仕方を知らないことに尽きるのです。

『これだけ社員のやる気がない、やる気が出ないとわれると、経者やマネジャーは反発したくなるに違いない。
「社員のやるや働きがいには十分気をつかってきた。ドライな欧米企業とちがって成績があがらなければクビを切るようなことはしないし、たとえミスをしても向こう傷は問わないようにしてきた。またやる気のある社員には、ポストに関係なくやりがいのある仕事も任せてきたはずだ。これだけ社員のやる気を尊してきたのにやる気が出ないとは、甘えるのもいいかげんにしろ!」と。
実は、そこに落とし穴があるのだ。』と太田氏は語る。さらに太田氏は続ける。

つまり、根っこは一つなのだ。それは、部下のやる気を常に鼓舞し、何よりもやる気を重視する「やる気主義」である。
社員が自分の仕事を片づけても帰れないし、たとえ仕事に余裕があっても休暇を取りにくいのは、休みを取らず遅くまで働く者ほどやる気があると上司が決めつけ、それをプラスに評価するからである。逆に、いくら仕事ができても早く帰り、休暇を完全取得していてはやる気がないと見なされ、高い評価は得られない。


やる気主義が蔓延している会社では、技術不足、もっともな作業プロセスを説明しても「やる気が問われている」と勘違いされてしまいます。違いが分からないのです。そういう会社では、考えさせることが必要なのですが、それが思うようにいかないのは明白です。白か黒か、イエスかノーか思考に染まっているのです。ですから命令の方が話が早い。そのように育てて来た結果ですが、その裏にはやらされ感があります。やらされ感が強く、考える力が弱いとマンネリ感がなかなか拭えないのです。

さらに、休みを取らず遅くまで働く者ほどやる気があると上司が決めつけるのには、上司の言い訳(無意識の自己満足)という巧妙なトリックがあります。このトリックは部下にすれば抜け道になります。 労働条件が厳しい反面、 やっているフリが通用してしまうのです。これが「落とし穴」です。
これが本のタイトルになっている世界に名高い見せかけの勤勉の正体なのです。世界に名高いというのは、外国人と仕事をしてみたら分かります。彼らは決めた条件通りにしか働きませんが、条件で定めたことには遂行するのに一生懸命です。建前がないのです。これがマネジメントとコントロールの基本なのです。

やる気を出せばもっとやれるはずだという思いが、部下に過大な要求を押しつけ、目標をエスカレートさせてしまう。そして、やる気のある者、忠実な部下には報いてやりたいという思いから処遇に差をつけ、それが結果として社員の聞に不満や不公平感を抱かせる。そもそも寄って立つ基準がやる気という主観的なものである以上、納得できない部下が出てくるのは当然である。

いっぽう、過剰な管理や人間関係の問題は「やる気主義」と無関係だと思われるかもしれない。しかし、それらも源は「やる気主義」に発していることが多い。
マネジャーというものは、自分のやる気や意気込みが強過ぎると、その意欲とエネルギーが部下の管理に向かう。またマネジャー自身が上司からやる気や忠心を見られていると思うと、それをアピールするため部下を過剰に管理してしまうことがある。

その通りなのです。そして自分のやる気や意気込みが強過ぎるほど、継続できないのです。マネジメントとコントロールは誰がやっても同じようにできる再現性を追求したものなのです。この点から見ても、主観に偏り、感情の起伏をエネルギーにして強制的に行動して当面の目標を達成するやり方には、疲れてしまって連続性がないのは明白なのです。

強制ではなく自発性。それには共感が必要なのです。一方、強制がなく自発性を期待するだけという職場もあります。これも失敗します。共感がないからです。マネジメントに於ける人を使って目標を達成するには、人が動く動機が必要なのです。それが共感です。共感というと主観のように思うかも知れませんが、計画された共感づくりには、誠実な下心による緻密な計算が必要なのであって、マネジメントの重要な部分なのです。

このような間違いを30代で正しておかないと、本当のマネジャーにはなれないまま、40歳を迎えてしまい、社員の生活設計も会社も歪んでしまうのです。